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大蛇の紋章 ~ヨーロッパの紋章について~ 第五章

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第一章 まえがき (Introduction)
第二章 紋章の起源 (An Origin of Arms)
第三章 紋章を構成するもの (An Organization of Arms)
第四章 描かれしもの達 (Featured)

第五章 ヴィスコンティの大蛇 (Visconti Dragon)
  5-1.ミラノ公国
  5-2.スフォルツェスコ城 (Castello Di Sforzesco)
  5-3.ヴィスコンティ家とスフォルツァ家
  5-4.ヴィスコンティの大蛇


第六章 あとがき (Postscript)

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第五章 ヴィスコンティの大蛇 (Visconti Dragon)

5-1.ミラノ公国

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ミラノ市市章

元々ミラノは、中世を通して公国という立場を貫いてきたという歴史がある。中世のイタリアは小国家が乱立しているような混沌とした状態にあったが、その中でもミラノ大公国は、ローマの教皇領・フィレンツェ共和国・ナポリ王国・ヴェネツイア共和国などと並ぶほどの大きな国であった。当時の北部イタリアのほとんどを支配していたこともある。
位置的にもミラノ公国はイタリアでもっとも北に位置していた。よって、フランスやドイツのような大国の脅威に絶えず備えなくてはならなかったのである。言ってみれば、イタリアでももっとも脅威にさらされている国だったわけである。そのような意味でミラノ大公国は、独立を保つために武力を常に必要としていた。そんな軍事国家ミラノを統治していたのがヴィスコンティ家であり、その娘婿が後を継いだスフォルツァ家である。そして、スフォルツァ家の城がこのスフォルツェスコ城(イタリア語で「スフォルツァの城」という意味)なのである。

5-2.スフォルツェスコ城 (Castello Di Sforzesco)

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スフォルツェスコ城

スフォルツェスコ城は、ミラノの支配者であったスフォルツァ家の居城として、1466年に完成した。この城はもともとは幾つかの堀に囲まれており、内部にはその堀の名残があるが今は外部の堀もなく、立派な城壁が取り巻いているのみとなっている。イタリアを初めとして、ヨーロッパの街はほとんどが城塞都市という性格を持っており、街の周りをぐるりと城塞が囲んでいることがほとんどであるが、その代わりに城主の城の周りをぐるりと壁で囲むなどというようなことはないのが普通である。街の周りの城壁が崩されたら、その街はそれで終わったも同然だからである。しかしこのスフォルツァ城の周りにはぐるりと城壁が囲み、外には堀さえ存在していた。もちろんではあるが、ミラノの街の周りにも城壁がある。これだけものものしい外観を持った城は、イタリアでは珍しいそうである。つまりこの地域はそれだけ警備を固める必要があったというわけで、この城だけを見てもその当時のミラノ公国の実状が想像できたりする。

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当時の城の周りの様子

この城の特徴は硬軟合わせたところだと言われている。正面入り口から入って行くと、当時は兵士が詰めていたと言われる巨大な中庭があり、その中庭の正面に見える建物は、向かって左側が窓が一切ない設計の要塞部分(硬)となっており、逆に右側のつたの絡まっている建物は住居部分(軟)として設計されている。スフォルツァ家の支配下のミラノは常に外敵に対する備えが必要であり、城も「威厳を保つため」というよりも「要塞」としての実質的な役割の方が求められたのである。

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最後のピエタ

そのスフォルツェスコ城だが、残念ながら長い歴史の中でこのミラノも他国の侵略を受けて、内部調度品などはほぼ略奪され尽くされ、わずかにタペストリーなどが残るばかりとなっている。現在のスフォルツェスコ城は開放され、ミラノの人々の憩いの場となっている。城の中は広い中庭と、それを囲む城壁と一体化した城という構成になっているが、城の中は今では博物館&美術館となっており、盲目となったミケランジェロが死の3日前までノミをふるっていたと伝えられる「最後のピエタ」像もここに保存されている。またここミラノでレオナルド・ダ・ヴィンチはスフォルツァ家の援護を受け、この城の設計にも手を貸したと言われている。

5-3.ヴィスコンティ家とスフォルツァ家

ミラノは元々ケルト人の都市として誕生した。やがて紀元前222年にローマに征服され、ローマ帝国西半の中心地として栄えて行った。4世紀にはミラノ司教「聖アンブロシウス」の活躍があり、テオドシウス帝のキリスト教国強化やローマ=カトリック教会の教義確立に大きな役割を果たした。この頃に彼を記念して、サンタンブロージョ教会が創建されている。6世紀になると北イタリアをランゴバルド王国が統治するようになり、ミラノの地位は次第に低下して行った。
11世紀頃には再び毛織物及び武器の商工業で繁栄するようになり、市民は自治政府を作ってドイツ皇帝と対抗しようとしたが、1162年にドイツ皇帝フリードリヒ1世が侵攻し、ミラノ市を破壊した。その数年後にはミラノはロンバルディア都市同盟の援助で再興し、その後はいっそう勢いを伸ばして行った。 この時代、経済力を付けたイタリアの都市国家の多くは共和政を実現して行ったが、ドイツ皇帝の影響下にあり、領主の力が依然強大であったミラノは、他の都市国家とは異なる方向へ向かって行ったのである。そして12世紀中頃に、ミラノを中心としたギベリン派 (皇帝派) の名家の一つが「副伯 (Vis-Conte)」の称号を得て世襲化し、ヴィスコンティ(Visconti)家として台頭して行ったのである。
1277年にはミラノ大司教オットーネ・ヴィスコンティ(1207~1295)が市長に就任し、14世紀初頭にドイツ皇帝ハインリヒ7世が南下した際には、ヴィスコンティ家のマッテオネ(1255~1322)がうまく皇帝に取り入って、皇帝代理 (代官) の地位を得、ミラノの実質的な都市領主となった。それ以降ミラノ公国はヴィスコンティ家の統治が続き、14世紀にはジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ (在位1385~1402) の下で大いに勢力を伸ばした。

(戦略の天才「ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ」)
芸術の分野に限らずルネサンス期のイタリアには、政治の分野にも時として特異な天才が登場するが、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティもその一人である。彼は類稀な策略の大天才だったのである。皇帝から「ミラノ公」の肩書きを買い取り、パヴィアに壮麗な王宮を建て、人文主義者を集めて教養ある君主を気取る一方で、財源としては市民や農民を弾圧して税金を搾り取ったのである。
また政治の遂行には、スパイ・買収・弾圧・懐柔・戦争と、ありとあらゆる手段を動員して異常なまでの統治の才能を発揮した。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの時代のミラノは、ヴェネツィア・フィレンツェと肩を並べる強国であり、彼によるイタリア統一も夢ではなかったと言われている。実際、彼は最大の宿敵であったヴェネツィアを倒すために、何とヴェネツィアの防衛線となっている海潟を干し上げてしまう計画を立ててすらいたそうであるが、寸前に彼が病死したので実現されなかった。もしもこの計画が本当に実行されていたら、さすがのヴェネツィアでさえも征服されていたのではないかとすら言われている。

ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの死後、領土は3人の子供に分割相続されるが、ヴィスコンティ家は後継者に恵まれず1447年にヴィスコンティ家最後のミラノ公フィリッポ・マリアの死亡により男系が絶える。その際ミラノは一時共和国となるのである。けれどもヴェネツィアとの争いが激化していた際に傭兵隊長として雇い入れられ、その後にジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの孫娘と結婚していた傭兵隊長のフランチェスコ・スフォルツァ(1401~1466)が、半ば奪い取るような形でミラノ公の地位を継ぐのである。

(稀有の傭兵隊長「フランチェスコ・スフォルツァ」)
ルネサンス時代のイタリアは、華やかな文化にばかり目を奪われがちであるが、政治的には全く分裂しており、群小の都市国家群が箱庭のような狭い領土を巡って、絶え間なく争いを繰り返していた。そのため、兵士の調達から訓練・戦略・戦術・実際の戦闘から兵士の労働条件や賃金の交渉の代行までを一気に引き受ける「戦争屋」のような商売が現れた。これが「傭兵隊長」という職業である。
傭兵隊長は最初、戦闘のたびに兵士を集めては解散させていたが、これではあまりに効率が悪いという観点から、平時であっても実戦に慣れた兵士を雇っておくようになった。けれども平時にあっては都市や諸侯は賃金を払わないので、その費用は自腹である。部下の兵士たちは自己資金で食わせている「私兵」ということになるのである。 そうなると今度は、傭兵隊長は自分の財産である兵士たちを戦闘で失いたくなくなる。必然的に戦闘に対して非常に慎重になったり、いざ戦場に出ても敵軍傭兵との政治的な駆け引きを行うようになっていったのである。
そうした打算と戦略に長けた傭兵隊長たちの中でも、最も野心に満ちていたのがフランチェスコ・スフォルツァ(1401~1466)だった。スフォルツァ家は元々はロマーニャの農民出身の家系であったが、ジャコムツィオ(ムツィオ)・アッテンドロ・スフォルツァ(1369~1424)は優れた才覚でナポリ公国で武勲を挙げ、イタリア最高の傭兵隊長と呼ばれるまでにのし上がり、「スフォルツァ (威服者)」の称号を得るに到ったのである。そしてその息子がフランチェスコ・スフォルツァであり、遂にはミラノ公国というイタリア有数の大国家をも、その手中に収めてしまったのである。

ヴィスコンティ家の男子後継者が途絶えた後、傭兵隊長であったフランチェスコ・スフォルツァ(在位1450~1466)は、妻が後継者であることを利用してミラノ公の地位を手中にすることを計画する。フランチェスコ・スフォルツァは宣伝によって自らの人気を煽り、周到な準備の末に人望が出るタイミングを見計らって、凱旋将軍のようにミラノに現れたのである。熱狂したミラノ市民はフランチェスコ・スフォルツァを馬に乗せたまま担ぎ上げ、ミラノ大聖堂へ運んでいって主君に推戴したと、その時の様子が今に伝えられている。しかしながら彼はあくまで実質的な支配者に過ぎず、正式にミラノ公の地位を得てはいない。

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その子ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ (在位1466~1476) は芸術を保護し、著名な建築家であったブラマンテを召し抱えたり、音楽家をして名をはせていたジョスカン・デ・プレをミラノ公宮廷礼拝堂聖歌隊へ招き寄せたりもしたが、残虐趣味と色欲に溺れて人民を困窮の底へ追いやり、遂には暗殺された。
その子ジャン・ガレアッツォ2世(在位1476~1481)はまだ8歳で、実権は公妃のボーナが摂政の座に就くことによって握った。彼女は経費節減の一策として聖歌隊を縮小し、ジョスカンも解雇した。
しかし1481年に叔父のロドヴィコ・スフォルツァ・イル・モーロ (在位1481~1499) が、ボーナと幼い甥ジャンから権力を奪い取る。「イル・モーロ(色黒)」と呼ばれたジャン・ガレアッツォ・マリアの叔父ロドヴィコ・スフォルツァは、まずボーナから摂政の座を奪い、続いて幼い甥ジャン・ガレアッツォ・マリアをクーデターで追放して自らミラノ公の地位に就いたのである。彼はドイツ皇帝と手を結び、勢力拡大を企んだが、1499年にフランス王ルイ12世に攻め込まれ、イル・モーロは国外へ追放された。イル・モーロの追放により、スフォルツァ家によるミラノ公国の支配は実質的に終わるが、形式的にはミラノ公の座はイル・モーロの2人の息子により1535年まで継承された。
スフォルツァ家によるミラノ公国に対する支配は、1450年から1535年までの85年間(3世代6名)で終焉を迎えるが、ミラノ公国そのものは1796年にナポレオンの征服により消滅するまで続く。その後、街としてのミラノはオーストリアの支配下に入り、やがて1860年にイタリアに統合されるのである。
つまりはミラノという街は、「ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ」や「フランチェスコ・スフォルツァ」や「イル・モーロ」という、これらあまりに強烈な個性溢れ出る領主達のアイデンティティを、今でも強く受け継いでいるのである。ミラノの人々が自分達の街に対して持っている誇りは、このようなところに根付いているのである。

(最後の晩餐)
ロドヴィコ・スフォルツァ・イル・モーロと言えば、あまりに有名なのがレオナルド・ダ・ヴィンチに描かせた「最後の晩餐」である。本筋からはかなり外れるが、ここではこの「最後の晩餐」について、少し触れてみたい。


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「最後の晩餐(Cenacolo Vinciano)」
1495~1497年制作 テンペラ+油彩
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo Da Vinch) 1452~1519年
サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ聖堂(Santa Maria Delle Grazie) 壁画

最後の晩餐とはイエス・キリストが磔刑の前夜に12人の弟子とともにした晩餐を指し、「主の晩餐」とも呼ばれているものである。新約聖書の「マルコによる福音書」や「ルカによる福音書」に記述されており、ここでイエスは裏切者を指摘するとともに、パンとブドウ酒をとって自らの体であり血であると言う場面である。つまり、「裏切りの予言」と「ミサの制定」である。
この場面をレオナルド・ダ・ヴィンチは修道院の食堂の壁に描いた。食堂にこれほどの巨匠の絵とは何とも贅沢なものと思われるが、つまりは僧たちは食事をいつもこの場面を想起しながらとることになるわけである。僧たちにとっては「最後の晩餐」を追体験することがひとつの修行だったからだ。食堂に最後の晩餐画を描くというのは、当時良く見られた手法なのだそうである。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、描くための時間的余裕を生み出すためと重ね塗りを可能にするために、それまで壁画には使われていなかった技法を用いた。それが災いして、完成直後から絵の具が剥落し始めた。その後幾度か修復が行われたが、修復技術が未熟であったためにオリジナルとは異なって描かれた部分もあった。また第二次大戦中は爆撃のため修道院がほぼ全壊し、この壁は奇跡的に損傷を免れたが、その後3年間は屋根のないまま風雨に晒されていたのだそうである。そのため当地では20年にわたって本格的な洗浄が行われ1999年にようやく終了した。この洗浄により、イエスの口が開いていたことやユダの視線、魚料理が並べられていたこと、タペストリーが掛けられていたこと等の新事実が掘り起こされた。
レオナルド・ダ・ヴィンチは遅筆で有名だが、完成品が少ないことでも知られている画家である。有名な「モナ・リザ(Monna Lisa)」も未完の作品である。そのようなレオナルド・ダ・ヴィンチの作品の中で数少ない完成品として、「最後の晩餐」はミラノのドメニコ教会のパトロンであった、ロドヴィコ・スフォルツァ・イル・モーロの注文によって描かれ、発注が1495年で完成が1498年2月という例外的なスピードで描かれた。当時の記録によると、レオナルド・ダ・ヴィンチは日の出から日没まで描き続けたかと思うと、数日間手をつけず、時には数時間作品を眺め、別の仕事現場から突然やってきて、少し筆を加えてまた突然去っていったという逸話も残っているそうである。

5-4.ヴィスコンティの大蛇

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スフォルツェスコ城に残るレリーフ

スフォルツェスコ城には当時のヴィスコンティ家の紋章が現在も残っている。先述したようにスフォルツァ家は元々はロマーニャの農民出身の家系であり、紋章も当然に歴史的な重みのあるヴィスコンティ家のものを継承した。ヴィスコンティの紋章は「人を飲む蛇」で、「ヴィスコンティの大蛇(Visconti Dragon)」と呼ばれ、今でもミラノの人々に愛され続けている。
このヴィスコンティ家の紋章に描かれている「人を飲む蛇」は、その昔ヴィスコンティ家の人が竜に襲われそうになっている子供を助けたという話に由来しているという説がある。また飲み込まれているのは回教徒であるサセラン人で、ドラゴンはヴィスコンティ家の祖先の化身であるとする言い伝えが残っていたりもする。いずれにせよ言い伝えが不確かであるために、明瞭な回答はないのだが、今に残された勇猛な話の数々からは、ミラノの人々のヴィスコンティ家に対する敬愛の念が伺える。

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ヴィスコンティ家の紋章

このヴィスコンティ家の紋章は、現在ではミラノ市の紋章としても使用されている。エスカッシャン(Escutcheon)を中央からイムペイルメント(Impalement)の手法を用いてマーシャリング(Marshalling)し、そのデキスターにヴィスコンティ家に古くから伝わるドラゴンを、シニスターには十字軍の英雄を意味すると言われる赤い十字架を配したものである。

どこかで見たような紋章・・・。そう、私を魅了したアルファ・ロメオ社の紋章(社章)そのものである。ようやくここまで辿り着くことができた。私が当初「素敵なマーク」と感じながら見ていたものの原点は、ここミラノのスフォルツェスコ城の城壁に燦然と輝き続けていたのである。

  1. 2011/02/01(Tue) 00:03:56|
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